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ケーニヒスベルク (プロイセン) : ウィキペディア日本語版
ケーニヒスベルク (プロイセン)

ケーニヒスベルク(, 公式表記:Königsberg (Pr)〔1936年までは Königsberg i. Pr.〕〔その他の言語での名称は以下の通り。, , , 〕)は、中世後期から1945年までの東プロイセンの中心都市であった。現在はロシア連邦カリーニングラードとなっている。
北方十字軍の時代、1255年に半島の真南のプレーゲル川河口にドイツ騎士団によって建設され、ボヘミア王オタカル2世を記念して名付けられた。街は、ドイツ騎士団国プロイセン公国東プロイセン州の首都となった。バルト海の港は、ドイツの文化的中心地へと発展していった。リヒャルト・ワーグナーイマヌエル・カントE.T.A.ホフマンダフィット・ヒルベルトなどの著名人の住居もあった。
ケーニヒスベルクは第二次世界大戦中の1944年連合国軍が行った空襲により相当の被害を被り、赤軍との戦い(ケーニヒスベルクの戦い)に敗れ、陥落した。ポツダム宣言によりケーニヒスベルクを含む東プロイセンの北半分はソビエト連邦に併合、ドイツ人は追放され、その後主にロシア人が入植した。その後短期間、「キョーニクスベルク」 (Kyonigsberg) というようにロシア風の名称となり、時の最高会議幹部会議長ミハイル・カリーニンにちなんで、カリーニングラードと改称された。現在のカリーニングラード州州都である。
== 歴史 ==

=== ドイツ騎士団 ===

ケーニヒスベルクが建設される以前の土地は、いくつかのプルーセンの集落とトワングステ Twangste (Tuwangste, Tvankste) として知られた砦が存在していた。1255年ドイツ騎士団によるプロイセンのサンビア族征服の折、トワングステは破壊され、「Conigsberg」として知られる新しい要塞が建設された。この要塞の名の由来は、プロシア十字軍の時代に〔Biskup〕〔Koch, p. 10〕最初の要塞の費用を支払ったボヘミア王オタカル2世に敬意を表して、そこを「王の山」(: castrum Koningsberg, Mons Regius, Regiomonti)を意味する「Conigsberg」と名付けたことによる。この新しいケーニヒスベルク城の周り(ヴィストゥラ潟からおよそ7kmの地点〔Baedeker, p. 174〕)に、プレーゲル川に沿ってアルトシュタット(旧市街)、クナイプホーフレーベニヒトという三つの街が作られていった。アルトシュタットは1256年、Steindamm(今のレーニン大通り Leninprospekt)に建設され、クナイプホーフはプレーゲル川の同名の中州(今のカント島 Kant)で発展した。その二つの街の東方に城池 (Schlossteich) と新プレーゲル川とで囲まれたレーベニヒトがあった。
ドイツ騎士団はザムラントの征服を強化し、異教徒のリトアニア大公国に対する遠征のための基地としてケーニヒスベルクを使用した。1262年-1263年のプロシアの反乱での攻城戦にさらされたケーニヒスベルクは、リヴォニア騎士団により解放された〔Seward, p. 107〕〔Turnbull, p. 13〕。アルトシュタットは反乱によってプルーセンに破壊され、城下の低地に再建された。その後、1286年にアルトシュタットはクルム法を授かって都市となり、1327年にクナイプホーフもその法を授かった。
ドイツ騎士団国の中でケーニヒスベルクは、騎士団の重要な管理的立場にある者の一人である元帥の居住地であった〔Christiansen, p. 205〕。街は、教皇使節モデナのグリエルモによってプロイセンを4つの司教区に分けたものの1つ、ザムラント司教区の司教座が置かれた。プラハのアダルベルトケーニヒスベルク大聖堂の主たる守護聖人となり、街のランドマークとしての大聖堂はクナイプホーフに位置していた。
1340年にケーニヒスベルクはハンザ同盟に加わり、南東バルト海地域の重要な港に発展していき、プロイセンリトアニア大公国ポーランド王国の商品を取り扱っていた。年代記作家デュースブルクのペーターは恐らく、1324年-1330年に「Chronicon terrae Prussiae」を編纂したと推測される〔Christiansen, p. 224〕。1348年ストレヴァの戦いでの、リトアニア人に対するドイツ騎士団の勝利後、騎士団長ヴィンリッヒ・フォン・クニップローデは、街にシトー会修道院を設立した〔Christiansen, p. 222〕。野心的な学生はプラハやライプツィヒなどで高等教育を学ぶより、ケーニヒスベルクで教育を受けることを選ぶようになった〔。
騎士団はグルンヴァルトの戦いでひどい敗北を受けたが、ケーニヒスベルクはポーランド・リトアニア連合とドイツ騎士団との戦いの中でドイツ騎士団の支配下のままであった。リヴォニア騎士団はプロイセンの分団のケーニヒスベルクにおける駐屯軍と置き換えられ、ヨガイラの軍隊によって占領された街の奪回に参加することを許された〔Urban, pp. 225–226〕。
1454年プロシア連合はドイツ騎士団に対して反旗を翻し、ポーランドの助けを求めた。クナイプホーフは反乱を支持したが、ケーニヒスベルクのほかの地区は騎士団に対する忠義を再確認した。1457年に騎士団長ルートヴィッヒ・フォン・エルリックスハウゼンは騎士団国の首都をマリーエンブルクからケーニヒスベルクへと移した。街の判事は同情からビール樽をエルリックスハウゼンに贈った〔Koch, p. 19〕。第二次トルンの和約により、西プロイセンはポーランドに移譲され、十三年戦争は終結した。ケーニヒスベルクは縮小した騎士団国の新しい首都となり、騎士団国はポーランド王国の封土となった〔Christiansen, p. 243〕。騎士団長は元帥の4分の1を引き継いだ。ポーランド・チュートン戦争 (1519-1521)のときに、大ヘトマンミコワイ・フィルレイ率いるポーランド軍によりケーニヒスベルクは包囲されたが、攻城戦は失敗しケーニヒスベルクは守られた〔Urban, p. 254〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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